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海老江曳山の概要
 
▼ 海老江加茂神社   ▼ 曳山の沿革   ▼ 曳山木遣り   ▼ からくり人形
 
海老江加茂神社

  海老江の加茂神社は、もとは現在の位置より北約150Mほど沖合いに建っていた村の産社としての夷堂であり、下村からの神輿渡御のお旅所が起源である。
 浜往来に沿うた海老江の村建ては古く、集落の形成は中世までにさかのぼる。すでに天文元年(1532)には、元村の下村から分村したことを証するいくつもの古文書が存在し、海老江は付近の街道村をひろく統轄する浦長をもつ海辺集落の主格として存在していた。

 宝暦10年4月4日、下村加茂神社の「寄り祭り」の日、朝から海老江沖に押し寄せた春鰯の大漁をようやく処分して、海老江の氏子が下村へかけつけたときには、すでに祭礼が終っていた。
 「海老江衆が来るまでなぜ待たなかったのか。」「いや、しばらく待ったじゃないか。」との口論から、ついには「下村衆に神様の守護をまかすわけにはいかぬ。海老江へ連れましてお守りする」ということになって、神様の取り合いケンカにまで発展し、海老江は神様の上体を持ち帰ってえびす堂に合祀したといわれている。
 
曳山の沿革

 海老江加茂神社の秋祭りには、氏子中から三本の曳山が出される。もともと、神輿の渡御に供奉する神事に由来し、五穀豊穣と大漁を祈願する農漁民の氏神信仰からきている。「海老江曳山まつり」は放生津八幡宮の曳山まつりとともに射水一帯の「名物祭り」として江戸時代より現在まで根づよく伝承されてきている。
 海老江は、江戸中期から明治にかけて沿岸漁業が最盛期で、これとともに、北海道、樺太、カムチャッカとの北前船交易と、この方面への出稼ぎがさかんであった。こうした漁業を中心として村中が最も栄えた時期に海老江三地区(東町、中町、西町)において曳山がつくられた。海老江は放生津に近かったこともあって、曳山の構造や囃子などについて、その影響がおおきく、類似するところが多い。
 
曳山木遣り

海老江には勇壮な曳山木遣りがある。これは、もともと漁業の網起し木遣り唄であり、弁財船の帆柱起し木遣り唄であった。しかし、明治初期より西洋式帆船や蒸気船、発動機船などの発達、機械化などによって帆船の姿が消え、それとともに帆柱起し木遣り唄や網起し木遣り唄も唄われなくなった。海老江では、明治末期の木遣り唄が曳山木遣りとして受け継がれている。
 
からくり人形

海老江曳山の自慢のものとして「からくり人形」がある。中町「唐子懸垂回転」は日本一の人形師、7代目玉屋庄兵衛の作で、人形の可愛い笑顔と軽快な動きがうまく調和されている。西町「唐猿童子」においても7代目玉屋庄兵衛の傑作で、22本の絹糸の操作によって小太鼓を叩いて歩いたり走ったりし、瞬時に唐子や猿の顔に変身するというものである。